怪物の力

怪物の力

この怪物の力で距離が縮ちぢまる、時間が縮まる、手数が省はぶける、すべて義務的の労力が最少低額に切りつめられた上にまた切りつめられてどこまで押して行くか分らないうちに、彼の反対の活力消耗と名づけておいた道楽根性こんじょうの方もまた自由わがままのできる限りを尽して、これまた瞬時の絶間なく天然自然と発達しつつとめどもなく前進するのである。この道楽根性の発展も道徳家に言わせると怪けしからんとか言いましょう。がそれは徳義上の問題で事実上の問題にはなりません。事実の大局から云えば活力を吾好むところに消費するというこの工夫精神は二六時中休みっこなく働いて、休みっこなく発展しています。元々社会があればこそ義務的の行動を余儀なくされる人間も放り出しておけばどこまでも自我本位に立脚するのは当然だから自分の好すいた刺戟しげきに精神なり身体なりを消費しようとするのは致し方もない仕儀である。もっとも好いた刺戟に反応して自由に活力を消耗すると云ったって何も悪い事をするとは限らない。道楽だって女を相手にするばかりが道楽じゃない。好きな真似まねをするとは開化の許す限りのあらゆる方面に亘わたっての話であります。自分が画がかきたいと思えばできるだけ画ばかりかこうとする。本が読みたければ差支ない以上本ばかり読もうとする。あるいは学問が好すきだと云って、親の心も知らないで、書斎へ入って青くなっている子息むすこがある。傍はたから見れば何の事か分らない。親父が無理算段の学資を工面くめんして卒業の上は月給でも取らせて早く隠居でもしたいと思っているのに、子供の方では活計くらしの方なんかまるで無頓着むとんじゃくで、ただ天地の真理を発見したいなどと太平楽を並べて机に靠もたれて苦にがり切っているのもある。親は生計のための修業と考えているのに子供は道楽のための学問とのみ合点がてんしている。こういうような訳で道楽の活力はいかなる道徳学者も杜絶とぜつする訳にいかない。


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